堀辰雄の小説「風立ちぬ」より。自身の体験をもとに病で亡くなった婚約者との日々を綴った中編小説。夕暮れを二人で見ながら、いつか思い出されるだろう記憶のなかのその光景はきっと美しいだろう、と主人公は思う。それは、死の足音を内側に響かせながら眺めていた、節子の眼差しを通しての美しさでもあった。
どんなに美しいだろうと
思っていたんだ
私は、このような初夏の夕暮がほんの一瞬時生じさせている一帯の景色は、すべてはいつも見馴れた道具立てながら、恐らく今をおいてはこれほどのあふれるような幸福の感じをもってわたしたち自身にすら眺め得られないだろうことを考えていた。
そしてずっと後になって、いつかこの美しい夕暮が私の心によみがえって来るようなことがあったら、私はこれに私達の幸福そのものの完全な絵を見出すだろうと夢みていた。
「何をそんなに考えているの?」、私の背後から節子がとうとう口を切った。
「わたし達がずっと後になってね、今のわたし達の生活を思い出すようなことがあったら、それがどんなに美しいだろうと思っていたんだ」
「本当に、そうかも知れないわね」。 彼女はそう私に同意するのが、さもたのしいかのように応じた。それからまたわたし達はしばらく無言のまま、再び同じ風景に見入っていた。(堀辰雄「風立ちぬ」より)
堀辰雄(1904 – 1953)東京出身の小説家。